テレビアニメ「鬼滅の刃」遊郭編が発表され、当時の遊郭の様子など気になっている方もたくさんいるかと思います。今回は第一弾のPVにも登場していた明治・大正時代の吉原大門「門と女性の像」について調べてみました。
江戸時代から大正時代まで吉原遊郭の入り口にはしっかりとした門がありました。現在も千束4丁目に「吉原大門跡」という形で棒状の看板が道路を挟んで二つ建っています。時代によって形状や素材は変わっていますが、明治時代に入ってからそれまでの木製の門から鉄の門に変わっています。映画「さくらん」に登場した金魚が入ってる門は空想上のものです。
遊郭があった場所には風俗街があります。当時と地形は変わっていないので、実際に行って想像してみると不思議な感覚になります。当時の吉原遊廓の出入り口は一箇所のみで、明治後期あたりまで周りはお歯黒どぶで囲われていたことは有名です。どぶの名残は今でもあって現在の風俗街は緩やかな坂になっていたり一段高くなっています。
今回調べたのは明治40年(1881)に作られた鉄製のアーチ型の門です。門というか門の上に飾られている女性の像のことを調べました。大正12年の関東大震災以降、門は作られなかったようで、実質これが最後の門となったと思います。この門はTVアニメ「鬼滅の刃」 遊郭編の第一弾PVにも登場しています。
デザインが異質というか、当時としてはなかなか攻めたデザインだったと思います。アールデコを基調とした西洋風のデザインを用いたもので、今でこそ大正ロマンとは言ったものの、評判は良くなかったと当時の資料(吉原下町談語)などにも書かれていました。左右の柱にはそれぞれ「秋信先通両行燈影」「春夢正濃満街桜雲」という福地桜痴という劇作家の詩が刻印されています。「春の夢の中にいたらいつのまにか辺りは桜が咲いていて、秋の知らせの秋雨は燈影に降る」と遊郭の夢の中の時間を表した詩というところでしょうか?この詩の刻印は以前の門にも刻まれていったようなので引き続き採用されたようです。今も吉原弁財天の入り口の左右の柱に刻まれています。
門の作者は「永瀬正吉」氏で明治40年4月に川口の鋳物工場で作られたそうです。川口の鋳物の歴史も古く平安時代から続いていると言われています。永瀬正吉氏は鳩ヶ谷氷川神社の天水桶などを作っていました。永瀬家は鋳物師の家系と思われます。
そして門の女性の像ですが、調べ始めた当初は吉原神社の祭神「市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)」だと思っていました。宝船に乗っている七福神の弁天様です。姿が似ていることと足元の水しぶきが水の神そのものです。ご利益を見ても芸能、技芸、商売繁盛などなど、そういったことから弁天様を表現したのだろうと思っていました。
しかし、当時の吉原の記録(新撰東京名所図会、山紫水明綺譚)には「龍宮の乙姫」であると記載があります。確かに遊郭に遊びに来る人たちを浦島太郎に例えるなら、意味は通ります。だとすると吉原弁財天の入り口の左右の柱に刻まれている詩は何を意味するだろう?弁財天の奥には弁天様が祀られています。個人的には「市杵島姫命」が有力だと思いますが。わかりやすいように「龍宮の乙姫」という解釈になったのかもしれませんね。どちらも正解としておきましょう。
「吉原下町談語(1968)」今回参考にした本の一つで小林栄さんという方の本です。実家が吉原の稲弁楼を営んでいて当時の貴重な話が書かれていました。
スズキロク(字獄の鈴木録)
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